受け継がれてきた遺産

時をさかのぼる旅

クレタ島を語るときに欠かせないものが二つあります。それは地中海に浮かぶ島の位置と温暖な気候です。その恵まれた環境は島の暮らしを豊にするた一方、数多くの征服者たちの野心も引き寄せてきました。

東西南北を結ぶ交差点に位置するクレタ島は、地中海交易の一大拠点として繁栄しました。

島の穏やかな気候と充分な日照時間、そして肥沃な土壌は、理想的なぶどう栽培の環境を作り出しました。こうしてぶどう栽培は島の歴史を語るうえで欠かすことのできない存在となったのです。

青銅器時代(紀元前2900年~紀元前1100年)

ヨーロッパ最古の文明であるミノア文明が起こった先史時代に、ぶどうの栽培はすでに始まっていました。エジプトから伝わったものと考えられています。

ビールが主流であったエジプトとは異なり、岩山の地形、穏やかな気候、充分な日照時間、適度な降雨は島のぶどう栽培を発達させました。それに加え、ミノア人の持つ高度な航海技術が、ワイン造りの発展を後押しします。こうしてクレタ島産ワインは周辺の地域へと運ばれ、交易品として広がっていきました。

圧搾所、酒器、線文字A・Bの文書、フレスコ画などの考古学遺物から、盛んなワイン生産が行われていたことが確認されています。特に島北部のクノッソス周辺では、その痕跡が数多く発掘されています。

ぶどうの収穫は秋分の頃に行われました。地域の人々がともに祝う祭りのような、共同の作業でもありました。

年齢を問わず多くの農民が収穫に参加しました。ぶどうを摘んで運ぶ者、食事の用意をする者、そして力と技術を要する土製の圧搾槽でぶどうを踏み、果汁を搾る男性。

搾りたての果汁(マスト)は密閉した壺に貯蔵され、器や革袋に入れて運ばれました。品種や産地が記されることもありました。

ワインは人々の日常生活や交易、さらには儀礼にまで深く根づきました。そして今日へと受け継がれるぶどう栽培とワイン造りの伝統の礎を築きました。

古代(紀元前1100年~紀元前30年)

紀元前1160年頃に起きたテラ島の噴火は、ミノア文明に大きな被害をもたらしました。

ドーリア人が島に入植し始めると、次第に軍事的な支配がもたらされました。一方で都市国家間の相次ぐ争いや海賊の襲撃が交易を妨げました。

それでも、エテオクレタ人は、家庭や地域での消費のためにぶどう栽培を行っていました。受け継がれてきた風習を守り続けたのです。

ヘレニズム時代に成立したゴルテュン法典は、現存する最古のギリシャ法典です。ぶどう栽培に関する民法も含まれていて、当時のぶどう栽培の重要性がうかがえます。

ローマ帝国時代(紀元前30年~紀元330年)

クレタ島がローマ帝国に組み込まれ 、ワインは黄金時代を迎えました。

ローマとアレクサンドリアの間という戦略的な位置にあるクレタ島は、地中海交易を結ぶ重要な拠点となりました。

平和と安定、そしてワインを愛したローマ人の嗜好を背景に、名高い「甘口のクレタワイン」が造り上げられました。

収穫後のぶどうを天日で乾燥させて、糖分を凝縮することもありました。自然とアルコール度数が高くなり、保存性にも優れ、輸出に適したワインが造られました。

ワイン醸造の技術も大きく進歩。圧搾方法が改良されるとともに、丁寧な熟成が行われるようになりました。

島内には17のアンフォラ(素焼きの壺)工房があり、帝国内各地へワインを輸送するための器を製造していました。

そして厳格な検査制度によって品質と量が管理されていました。当時、ワインがいかに価値のある産物として扱われていたかが分かります。

この時代を通じてクレタ島は、当時の海外でも高く評価される、洗練されたワインの産地としてその名声を確立しました。

ビザンティン帝国・第1期(紀元330年~紀元824年)

ビザンティン帝国の統治下で、島のワイン文化はさらに発展しました。

キリスト教が広まり、修道院でもぶどう栽培が取り入れられました。ワインの守護聖人である聖トリフォンも崇敬されました。

ワインは宗教儀式や医療、日常生活において重要な意味を持つようになりました。修道院では、その醸造や貯蔵に関する詳細な規則が出来上がっていきました。

アラブ支配時代(紀元824年~紀元961年)

アラブ人(サラセン人)による支配は、クレタ島の衰退を招きました。厳しい統治や奴隷制、海賊行為によって人口と経済は大きな打撃を受け、ぶどう文化も衰退していきました。

ビザンティン帝国・第2期(紀元961年~紀元1204年)

ビザンティン帝国の再統治によって社会に安定が戻り、ぶどう栽培も再び盛んになりました。

キリスト教において深い象徴を持つぶどうの樹は、教会のフレスコ画や石彫、木彫、祭服に至るまで、さまざまな芸術品に描かれました。

ぶどう栽培は単なる農作業ではなく、復活、豊富、信仰を象徴する精神と文化の一つとなったのです。そして島にしっかりと根付いていきます。

ヴェネチア統治時代(紀元1204年~紀元1669年)

クレタ島産ワインにとって、おそらく最も華やかな時代でした。

ぶどう畑はあらゆる階層の間で広がり、ワインは穀物よりも高い収益をもたらしました。

大商人であったヴェネチア人達は、クレタ産ワインをヨーロッパ全土へ輸出し、醸造量を増やしました。そして品質の向上を求めました。

この時代に造られた実用的な圧搾所の多くは、現在もペザ地区に残されています。

その多くは封建領主によって造られました。ドーム状の多孔質な石造圧搾槽と、そこから石灰岩の管でつながれた受け槽を備えていました。

斜面に設け、搾った果汁(マスト)を高低差を利用でして輸送用の器へと流し込む仕組みでした。

石に刻まれた溝や開口部(アネモラオス anemolaos)は、通気を確保するとともに、果汁を効率よく集める役割を果たしました。

剪定や耕起、境界線の確保、樹の植え替えに至るまで、栽培方法は細かく規定され、ヴェネチアの高い基準にふさわしいワインの品質が保たれていました。

価格は、種類、産地、熟成期間、輸送条件などによって決められました。詳細な契約書を付けることで不正も防がれていました。

この時代、クレタ産ワインはヨーロッパに広くその名を知られる産物となったのです。

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オスマン帝国統治時代(紀元1669年~紀元1898年)

オスマン帝国の統治は、クレタ島のぶどう栽培に深刻な打撃を与えました。

宗教上の禁止や重い課税、農業への関心の低下などによりぶどう畑は荒廃し、ワインの品質も低下していきました。

クレタ島の経済と文化は大きな打撃を受けましたが、農村では自家用にほそぼそとワイン造りが続けられ、伝統は途切れることなく受け継がれていきました。

近代ギリシャ(紀元1898年~現在)

オスマン帝国からの解放を経て1913年にギリシャと統合されると、クレタ島ではぶどう畑の再開発が始まりました。

固有品種の記録、醸造学の専門化、そしてワイン研究機関の設立が、島のワイン産業復興の基盤を築きました。

第二次世界大戦やフィロキセラ(ブドウネアブラムシ)による打撃を乗り越え、1960年代、クレタ島のワイン産業が新しく生まれ変わりました。

原産地と品質を保護するPDO制度の導入により、土着品種の復興も進みました。

最新の醸造技術を取り入れ、忘れられていた古来品種を発見してきました。そして地元醸造家たちの技術によって、クレタ島は上質なワインの産地としての評価を再び取り戻しました。

ペザPDO(保護原産地呼称)

イラクリオン県中北部に位置するPDOペザ地域は、1971年に赤ワイン、1982年に白ワインの原産地呼称が認められたワイン産地です。ペザ、カタラガリ、ミルティアなどの村々が含まれます。

この地域のぶどう畑は標高300~800メートルの石灰質土壌に広がります。南からの熱風は山々に遮られ、北からは涼しい海風が吹きます。こうしてぶどうはをゆっくりと成熟していくのです。

伝統的な赤ワイン醸造では、コチファリ75%とマンディラリア25%をブレンドします。マンディラリアがワインに骨格と色調を与えます。

9つのワイナリーがPDOペザの赤ワインを、5つのワイナリーがPDOぺザの白ワインを生産しています。それぞれのワインがこの地域特有の風土を表現しています。

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